鎖国令以前 スペイン来寇以前から日本人商人が、鹿皮などを求めてやって来ており、ルソン島北部には日中連合の倭寇の基地がありました。貿易が拡大し日本人が増えるとフィリピン政庁は取り締まり上から日本人居住区を設定、1590年代に日本人町が成立。徳川幕府とフィリピン総督の合意により朱印船貿易が始まると、貿易はさらに拡大し1620年代に日本人町はおよそ3000人となっていたのです。また貿易以外でも日本人は、スペインのカンボジア、モルッカ遠征や中国人反乱の鎮圧などに傭兵として活躍した者がありました。
日本がスペインに対して入貢を強要したり、難破したスペイン船を没収したりしたほか、キリスト教徒の弾圧、またフィリピン遠征計画が伝えられるとフィリピン政庁は日本人を弾圧、これに対し1606年と1607年の2回、日本人による反乱が起こるのです。
また、日本人で、フィリピンに渡ったことのある人で有名なのは「呂栄助左衛門」と 「高山右近」のふたりにつきます。
両者とも安土桃山時代から江戸時代初期の人ですが「呂栄助左衛門」は商人で、その 頃盛んに行われていた朱印船でルソン(フィリピン)に渡り、1593年にルソンから帰国し た際、持ち帰ったルソン壺を豊臣秀吉に差し出し、秀吉はそれをいたく喜び、他大名も それではと高額で購入、、、しかし、その中のいくつかの助左衛門所有のルソン壺を秀吉に謙譲を渋った事から(結局は秀吉が助左衛門から買い求める事になってしまう、その 関係がきしみ始め、身の危険を感じた助左衛門は、さっさとカンボジアに渡ってしまい、この地でも持って生まれた商才で成功を収めたらしいです。
「高山右近」はキリシタン大名として有名で、その影響力を最終的には秀吉も徳川家康も恐れ、1614年に家康がキリシタン禁止令・バテレン追放令を出すと、長崎の港より300人以上のクリスチャンと共にマニラに向け出港、、、苦しい航海の上、12月11日にマニラに 到着。右近一行は、歓迎の祝砲と歩兵の礼砲をもって迎えられました。
しかし、このわずか40日後に病に倒れてしまいます、、、結局1615年2月4日に63歳にしてその生涯をフィリピンの地で終える事となりました。
<ちなみに現在のマニラではプラザテラオ 比日友好公園に、比日国民の友好と協力のシンボルとしてモニュメントが建立されました。この計画はマニラ市長ラモンロバガチン氏の創設になるマニラ市美化婦人委員会が提唱し、マニラ市並びに日本の東南アジア文化友好協会高槻市建立支援実効委員会経済同友会日本のカトリック、プロテスタント両教会の協同の業として完成したのです。>
この頃には、マニラには300人ほどの日本人がいたらしいですが、秀吉や家康のフィリピンに対する要求(貢物をするように等の)に対して、その当時のフィリピン総督はマニラ在住の日本人を、マニラ郊外に強制移住させてしまいます。
それに対して1607年、不満を持った日本人はスペイン当局に対して武器を持って反乱を起こしますがあえなく敗退してしまいます。
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