からゆきさん、、、

フィリピンで最初に見られるようになった日本人グループの中に「からゆきさん」がありました。「からゆきさん」は19世紀後半から急増したアジアの欧米諸国の植民地開発のため、半ば強制的に未開地や港湾に連行された中国人やインド人などの下層労働者の慰安用、そして足止め用として利用するため発生した中国人娼婦グループを補うかたちで増加し、とくに公娼制度のあったイギリス領植民地などを中心にその数を増やしていました。

「からゆきさん」の受け入れ先には、そのような事情があったわけですが、送り出し側の日本にとっては、外貨獲得の尖兵としての価値を見出し、密航者が多かった「からゆきさん」を黙認していたようです。あの福沢諭吉すら「そういう土地に行って、必要とされる娼婦の仕事をし、帰国時には相応の銭を持って立派に家を建てる者も多く、この様に、いずれにおいても利益の多き事なので、移住の奨励と出稼ぎを自由にするのは経世上の必要なること」と「からゆきさん」を奨励していました。

「からゆきさん」の出身地は九州の人が多かったのですが、やはりその当時、地域的に貧しかったということもあり、「からゆきさん」は地域に富をもたらす名誉でさえあったようです。家族に楽な思いをさせたいという気持ちで「からゆきさん」となり、南洋に行かれた方がほとんどだった事だと思います。

フィリピンでは、1898年のアメリカ領有後、駐留するアメリカ軍の強い要望で1902年末から増加し、1920年までの廃娼まで全土津々浦々に300から400人がいたと考えられます。しかし、廃娼後は激減し、1940年には11人しかいなくなっていたそうです。

この時期、いまや工業国・先進国・・・ようするに「一等国」となった日本は「からゆきさん」の評価をかつての外貨獲得の尖兵、アジア進出の先鋒としての評価から、一転、「国辱」の烙印を押してしまいます。「一等国」としての対外的な面子を重んじて「からゆきさん」を抹殺してしまった日本は、その後の「からゆきさん」の面倒を何一つみませんでした。

当時の知識人たちからも、軽蔑の対象となってしまった彼女達の多くは、慣れない異国で風土病・過労・栄養失調、そして梅毒などによって若くして死んでいってしまいました。

まだ近代化がなされる前の貧乏だった日本を、自分の身を切り売りしての送金で支え、国が発展し面子を重んじるようになると「国辱」として切り捨てられてしまった「からゆきさん」。
彼女達の無念は幾許のものがあったのかと思うと、とても平常心ではいられません。

明治以降の関り

明治以降、太平洋戦争の勃発までにフィリピンに渡航した日本人は53,115人にものぼるようです。この数は、同時期に世界各国に渡航した人の6.8%、東南アジアの中だけでは69.7%にあたります。

1896年に施行された移民保護法では、労働を目的として海外に渡航する者と定義されていました。フィリピン行きは、地理的な近さから(南米などに比べると)出稼ぎ傾向がより強く、大半の人がそうであったようです。

フィリピン在住日本人職業別人口調査は、1896年にマニラの日本領事館が再開されてから、ほぼ毎年定期的に行われていました。それを見ると、主な職業は「娼婦(からゆきさん)」「道路工夫」「農夫」「大工」「木挽き」「漁民」「商人」であった事がわかります。

これらの職業から、日本人渡航者の大半は、この頃から起きた植民地での奴隷制度廃止に伴う労働者不足のために大量に増えたアジア系の移民と同じ性格であったものと考えられます。19世紀後半の世界情勢の中で、アジア各地は欧米諸国の従属下に置かれ、その結果国を離れざるえなくなった人をたくさん発生させました・・・この時期、日本もその例外ではなく(植民地化がされませんでしたが、経済状態は他のアジアの国と同じで、故郷での生活基盤を失ってしまった人々や、その時代のうねりの中で一攫千金を狙った者が、新天地を求めて北海道に移住したり(実は私の先祖の中にも、この時期、一
攫千金狙いで北海道に渡った人がいます・・・残念ながら、夢破れてしまったようですが)あるいは海外に渡ったりしたのです。

その行き先のひとつが、フィリピンであったという事なんですね。

明治以前の関り

鎖国令以前  スペイン来寇以前から日本人商人が、鹿皮などを求めてやって来ており、ルソン島北部には日中連合の倭寇の基地がありました。貿易が拡大し日本人が増えるとフィリピン政庁は取り締まり上から日本人居住区を設定、1590年代に日本人町が成立。

徳川幕府とフィリピン総督の合意により朱印船貿易が始まると、貿易はさらに拡大し1620年代に日本人町はおよそ3000人となっていたのです。また貿易以外でも日本人は、スペインのカンボジア、モルッカ遠征や中国人反乱の鎮圧などに傭兵として活躍した者がありました。 

日本がスペインに対して入貢を強要したり、難破したスペイン船を没収したりしたほか、キリスト教徒の弾圧、またフィリピン遠征計画が伝えられるとフィリピン政庁は日本人を弾圧、これに対し1606年と1607年の2回、日本人による反乱が起こるのです。

また、日本人で、フィリピンに渡ったことのある人で有名なのは「呂栄助左衛門」と 「高山右近」のふたりにつきます。

両者とも安土桃山時代から江戸時代初期の人ですが「呂栄助左衛門」は商人で、その 頃盛んに行われていた朱印船でルソン(フィリピン)に渡り、1593年にルソンから帰国し た際、持ち帰ったルソン壺を豊臣秀吉に差し出し、秀吉はそれをいたく喜び、他大名も それではと高額で購入、、、しかし、その中のいくつかの助左衛門所有のルソン壺を秀吉に謙譲を渋った事から(結局は秀吉が助左衛門から買い求める事になってしまう、その 関係がきしみ始め、身の危険を感じた助左衛門は、さっさとカンボジアに渡ってしまい、この地でも持って生まれた商才で成功を収めたらしいです。

「高山右近」はキリシタン大名として有名で、その影響力を最終的には秀吉も徳川家康も恐れ、1614年に家康がキリシタン禁止令・バテレン追放令を出すと、長崎の港より300人以上のクリスチャンと共にマニラに向け出港、、、苦しい航海の上、12月11日にマニラに 到着。右近一行は、歓迎の祝砲と歩兵の礼砲をもって迎えられました。
しかし、このわずか40日後に病に倒れてしまいます、、、結局1615年2月4日に63歳にしてその生涯をフィリピンの地で終える事となりました。

<ちなみに現在のマニラではプラザテラオ 比日友好公園に、比日国民の友好と協力のシンボルとしてモニュメントが建立されました。この計画はマニラ市長ラモンロバガチン氏の創設になるマニラ市美化婦人委員会が提唱し、マニラ市並びに日本の東南アジア文化友好協会高槻市建立支援実効委員会経済同友会日本のカトリック、プロテスタント両教会の協同の業として完成したのです。>

この頃には、マニラには300人ほどの日本人がいたらしいですが、秀吉や家康のフィリピンに対する要求(貢物をするように等の)に対して、その当時のフィリピン総督はマニラ在住の日本人を、マニラ郊外に強制移住させてしまいます。

それに対して1607年、不満を持った日本人はスペイン当局に対して武器を持って反乱を起こしますがあえなく敗退してしまいます。